クロード・アシル・ドビュッシー(1862~1918)は、日本でも人気のあるフランスの作曲家だ。交響曲『海』のような大作から、ピアノ曲『月光』『亜麻色の髪の乙女』などでも親しまれている。ドビュッシーの名を知らない人でも、メロディーを聞けば「ああ、知っている」という曲がたいていあるはずだ。非常に美しく、耳に心地よい曲が少なくない。
いろいろな名曲の数々を生み出したドビュッシーだが、その人物は流麗なメロディーとは裏腹に、とんでもない最低男だったのである。
ドビュッシーはパリ郊外の貧しい家庭に生まれた。生活が苦しかった上に、8歳の時に政府に不満を持つ民衆の暴動「パリ・コミューン」に父親が参加し、投獄されてしまう。その結果、さらに生活は苦しくなり、ドビュッシーは初等教育を受けることができなくなってしまう。
ところが、親戚の知人によって音楽の才能を見出されたドビュッシーは、10歳でパリ音楽院への入学を果たし、音楽家としての道を歩み出す。そして、10代でピアノ教師として働きながら、音楽の勉強を続けることとなった。
ここまでなら、才能ある音楽少年の苦学の日々という美談である。ところが、この頃からすでにドビュッシーの暗黒面である、女癖の悪さが現れていた。
ドビュッシーが18歳の時、上流階級のサロンで専属ピアニストとして働くこととなった。しかし、このサロンに出入りしていた年上の人妻と親しくなり、男女の関係になってしまう。この人妻、夫は裁判所書記でかなりの金持ちだったため、自宅に勉強部屋などを作ってドビュッシー「好きなように使って」と与えた。まだ少年だったドビュッシーは、音楽の勉強に励みながら、夫の留守中には人妻とセックスにも大いに励んでいたというわけである。
だが、これだけならセレブな人妻の暇つぶしのお相手という見方もできよう。ところがドビュッシーは、同時にピアノ教師として教えていた別の上流家庭で、こともあろうに教え子である13歳の少女に手を出してしまった。だが、この件はすぐに少女の母親にバレてしまい、激怒したマダムは即刻ドビュッシーをクビにしてたたき出した。それでも、裁判所書記夫人との関係は通算で8年間も続き、カネと下半身はとりあえず足りていたようだ。
その後、ドビュッシーは26歳の時に知り合ったガブリエルという女性と一緒に暮らすようになる。ガブリエルはドビュッシーの才能を理解し、働いて生活費を援助し、またパートナーとして、実に10年もの間、誠実かつ献身的にドビュッシーを支え続けた。
ところが、である。ドビュッシーはガブリエルの友人であるロザリーという女性に乗り換えるると、ガブリエルをゴミクズのように捨ててしまう。そして、すぐにロザリーと結婚。このあまりに酷い仕打ちに、ガブリエルはピストル自殺を図る。幸い、一命を取り留める。
しかも、ロザリーと結婚する前に、すでにテレーゼという楽団のソプラノ歌手やサロンで知り合った芸術家の娘たちにも次々に手を出す。そのなかには、象徴派の詩人として有名なステファン・マラルメの息女もいたらしい。さらに一般のファンの女性などは数知れず。どれほど食い散らかしたのかわからない。人妻だろうが未成年だろうが、そんなことまったく関係なしだった。
だが、話はこれで終わらない。ロザリーと結婚してわずか5年足らずで、今度はピアノを教えていた生徒の母親であり、銀行家の夫を持つエマと不倫関係になる。しかも、速攻でエマを妊娠させると、身重の彼女をつれて駆け落ちすると、そのまま再婚。置き去りにされたロザリーもまた自殺を図るが、今回も命は助かる。
美しい人妻とともに今度はたっぷりとカネも手に入れたドビュッシーだったが、今回ばかりはさすがに個人の恋愛に寛容なフランス国民も黙っていなかった。カネ目当てに自分の妻を捨てたゲス野郎として、ドビュッシーは世間から猛攻撃を受ける。この結婚の直後に名曲『海』を発表するものの、世間の怒りからボロクソに酷評されてしまう。
しかし、エマが出産すると、その娘であるクロード・エマを溺愛するようになる。43歳で授かった初めての子供だったためだろうか、つい先ほどまでの女たらし、下半身暴走男のドビュッシーは、ゆるんだ親バカ中年男に変身してしまった。そして、傑作とされる『子供の領分』を書き上げる。
しかし、それから9年後、ドビュッシーは直腸がんでこの世を去る。55歳だった。さらに、その翌年、可愛がっていた娘のクロード・エマがジフテリアによる髄膜炎が原因でわずか10歳で死んでしまう。その19年後に、妻のエマも死去する。
ドビュッシーにかかわった女性は、その多くが不幸な人生を進むことになった。現在親しまれている名曲の影には、女性たちの鳴き声が悲しく響いているのである。
(文=橋本玉泉)