今年の春から始まった、お笑い芸人とミュージシャンが互いの本音を語り合う深夜のトーク番組『ゲストとゲスト』(テレビ朝日系)が、話題を集めている。ミュージシャンとお笑い芸人という、一見まったく別の分野にも思える者同士によって展開されるトーク番組では、彼らの意外な共通点がうかがえて興味深い。同番組の企画はこの秋に『深ボリ~ミュージシャン×芸人、本音対談』(マガジンハウス)として書籍販売も予定されている。そんな『ゲストとゲスト』に、20日深夜、ネプチューンの名倉潤とトータス松本が登場。その中で、名倉が「俺は芸人じゃない」発言し、加えてトータスも「(自分も)アーティストなんて言われると困る」と応えていた。なぜ彼らは、誰もが彼らを“芸人”や “アーティスト”と思っているにもかかわらず、それを否定するのだろうか。
名倉は、自分のことを芸人と思わない理由を、「恥ずかしい」や「照れる」からだという。そして、そういった認識は「ネプチューンのメンバーも同じ」だと付け加え、「3人揃って、番組の打ち合わせなんかで、“芸人じゃありませんから”と言ったことがある」と告白した。「それじゃ自分で自分のことはどう思っているのか?」とトータスに聞かれた名倉は、間髪入れず、「テレビタレント」と応え、「これまで、ずっとそうした意識でやってきた」という。視聴者の多くがネプチューンというトリオを芸人として見ているのは、疑いようのない事実だろう。それでも名倉は自分を「芸人じゃない」という。そこにある羞恥心とは一体なんなのか。
いち視聴者には少々理解しがたい名倉の感覚だが、トークの相手であるトータスには十分理解できるようで、彼も、「(自分は)アーティストというより、ミュージシャンの方がまだしっくりくる」「むしろ“バンドマン”とか“歌うたい”かな」と自己分析。「間違っても自分のことを“ロックンローラー”ですとは言えない」と笑う。トータスが自分のことを“ロックンローラー”と言ってもなんらおかしいところはないと思うが、どうやら自分の中では成立しないのだろう。そして、その理由を「なんか恥ずかしい」とする。動機は名倉と同様ということだ。
記者は仕事柄、若手芸人と話をする機会があるが、確かに、いきなり自己紹介で「自分、芸人やってます」とドヤ顔で言われると、「なんなんだコイツ」と思うときがある。もちろん、芸人という職業に誇りを持つことは素晴らしいことだし、バカにしているわけではない。が、そう芸人芸人とアピールされると、若干引いてしまう。かつて、キングコングの2人が、「THE MANZAI 2011」の会見時に「漫才師ですから」と、したり顔で言い放ったときに感じた悪寒のようなものに似ている。「そんな偉そうに言わなくても……」という感じだ。
その点、名倉やトータスの恥じらいからくる発言には好感が持てる。遠慮や控えめという日本人ならでは美徳とも言えるだろうが、そもそも芸人というのは、吉本新喜劇座長の小籔千豊が言うように「しょせんなんの役にもたたない存在」。腹を満たすわけでも、生活を向上させるわけでもないのだから、まずはそのことを自覚しなければいけない。もちろん、だからこそ貴重で、より豊かな人生を送るのに必要な笑いを届ける芸人という仕事は尊いということだ。しかし、小籔の言う“自覚”がなければ、一般社会に生きている人々が彼らを見て感動することはできない。いきなり、「どうだ」と言わんばかりに芸人面をされても困惑してしまうし、「だからなに?」と不快に思うことすらある。きっと名倉やトータスにも、小籔の言う“自覚”があるのだろう。だから彼らは自分たちのことを恥じらいながら「芸人じゃない」「アーティストではない」という。
いつの頃からか、芸人という職業が世の中に認知され、社会的な地位が見直されると、なんのためらいもなく自分を“芸人”と名乗る若者が増えてきた。もちろん自分の夢や仕事にプライドを持つことは素晴らしいが、果たして、芸人やミュージシャンという職業柄、それを全面に押し出して人々に感動を与えることができるだろうか。そうしたプライドは胸の奥にしまってこそ、より強く輝くのではないだろうか。次から次へと若手芸人が出てくるが、誰一人として、その上に行けないのは、小籔のいう“自覚”と名倉やトータスに見られる“恥じらい”が足りないからだ。このことは、記者も十分肝に銘じて精進していきたい。
(文=峯尾/http://mineoneo.exblog.jp/)
著書『松本人志は夏目漱石である!』(宝島社新書)