した』マイウェイ出版
鴎外こと森林太郎といえば、幼少期からエリートとして育てられ、若い頃から小説や評論など多くの優れた作品を遺し、また『即興詩人』『ファウスト』をはじめとする翻訳でも卓抜した業績で知られる、明治の文学界における巨人として不動の地位を確立していることは言うまでもあるまい。
ただし、その地位と栄光とは裏腹に、暗部や常軌を逸した行動なども数多く報告されている。
たとえば、処女作『舞姫』では自らの体験をもとにドイツ人少女との悲恋を描いたが、実際にはエリスのモデルとなった女性は精神を病むなどということはなく、それどころか気丈にも日本に逃げ帰った鴎外を追って来日した。
ところが若きエリート鴎外は彼女に会うことなく、実家である豪邸の奥にひっそりと引きこもったままだった。そして、森家の人間たちが彼女を取り囲み、脅したりなだめたりして「説得」した挙げ句、いくらかの現金をつかませてドイツへと追い返したというのが現実である。
さてその鴎外は、文学者であると同時に医師・医学者としても知られ、46歳の時には陸軍軍医総監や陸軍省医務局長の地位にまで登りつめる。その医学者・鴎外が手がけた仕事のひとつが、「オナニー無害論」であった。
明治35年3月、42歳の鴎外は陸軍第一師団軍医部長に任命され、再婚したばかりの24歳の若妻を伴って赴任先の小倉から東京へと戻ってきた。その頃、医学界では「オナニーは精神ならびに身体に害を及ぼす」という学説が盛んに発信されていた。そこでは、オナニーによって引き起こされる事例として、めまいや脱力感、過度の疲労感に始まり、果ては性的不能や重度の精神障害、失明などに至るという説まで登場している。まさに「オナニーは害毒」と言わんばかりである。
実際には、ドイツの医学界の流れに加えて、日本でも富国強兵の風潮の中で「生徒・学生はオナニーよりも勉強しろ」という当局の思惑などがからみ、特殊な事例ばかりが集められ、さも「オナニーが健康に悪い」という印象づけがなされたようである。
これに対して、理論派の鴎外は真っ向から反論した。鴎外は共同で発行していた雑誌『公衆医事』で「オナニーは無害」という主張を展開した。そのなかで鴎外は、オナニー・マスターベーションの訳語として一般的だった「自涜」という用語を「独婬」と改めるなど、イメージの点でもオナニー無害論を強く打ち出した。
「鴎外全集」(岩波版)第32巻収録
だが、完全主義の鴎外は、論説ばかりに終始することでは満足しなかった。そこで鴎外は、オナニーの無害を自ら立証するため、再婚したばかりの24歳の若妻をほったらかしにして、連日のようにマスターベーションに明け暮れたそうだ。
その鴎外の「研究熱心さ」に、最初の頃こそ傍観していた若妻も、セックスレス期間があまりに続いたため、ついには夫に「私は何のためにいるのです」と泣いて訴えたという。
こうした鴎外の努力にもかかわらず、時代はオナニーや性欲を罪悪視するような方向へと進んでいく。そして大正から昭和に時代は移り、政治色が強くなるとその傾向はさらに強くなっていく。政界や官界、財界のエライ連中はカネと権力で自らの性欲を存分に満足させながら、若者たちにはセックスや恋愛を禁じていたのだ。この頃から、権力側による国民への性に対する歪んだ醜悪な押し付けは始まっていたのである。
(文=橋本玉泉)