人の弱みに付け込んで、多額の現金をむしり取る輩というのはいつの時代にもいるものだ。最近なら「儲かる」「高額収入確実」「難病を克服」「効果抜群のダイエット」などと銘打った、インチキな内容の情報商材がそれに該当するだろうか。
事件は昭和2年のこと、横浜市である医院の経営者(35)が警察の取り調べを受けることとなった。その経営者、ある医師に頼んで月に1回程度来院してもらい、医院としての体裁を整えた。いわゆる名義貸しである。そして実際の診療は、医師の資格もないその経営者が行っていた。
ところが、当のモグリ医師がやっていた診療の内容が驚くべきものであった。
そのモグリ医師は、来院してきた患者に対して、片っ端から「梅毒です」と診断し、治療のための注射を打っていたというのだ。
当時、梅毒治療には明治43年にドイツ人のP・エールリヒと日本人の秦佐八郎が開発した特効薬「サルバルサン606」が広く使用されていた。このサルバルサンは梅毒治療には有効な唯一の治療薬だったが、まれに皮膚炎や脳炎、腹部の激痛、ショックなどの激しい副作用があることも知られていた。ちなみに、ペニシリンなどの抗生物質が発見されてからは、サルバルサンが治療に使われることはなくなった。
当時の資料や広告を見ると、サルバルサン注射の治療代として1回につき5円から6円程度が相場だったらしい。そのモグリ医師は、1回当たり5円でサルバルサン注射を行っていたという。
【当時の新聞広告。性感染症関係のものが非常に多い】
昭和2年頃の物価といえば、もりそばやカレーライスが10銭程度という時代である。5円といえばかなりの高額であるといえよう。仮にカレーライス1杯400円とすると、当時の5円は現在の2万円くらいになるだろうか。
そして、その頃は梅毒というと、放置すれば死に至る恐ろしい病気であり、かつサルバルサンしか特効薬はなかった。それに、これは現在も同じであるが、性感染症はできれば人知れず早く治したいと思うのが人情である。医師と思われる人物から、「梅毒だ。すぐに治療が必要だ」と言われたら、「お願いします。先生」と答えるのが普通であろう。
新聞記事によれば、19歳の女性が来院した際、盲腸炎であるにもかかわらず「子宮の病気だ」と診断してサルバルサンを注射。その結果、盲腸炎が悪化して重体になってしまった。また、「耳が痛い」と受診した37歳の女性患者にも「梅毒のせい」と称してやはりサルバルサン注射を行ったというから、もうメチャクチャである。
こうしたデタラメな治療ばかりしていることがウワサとなり、ついに警察が動いたというわけである。デタラメな治療を受けた来院者のなかには、サルバルサンの副作用やもとの病気の悪化によって、重症化して重篤な状態になり、なかには死亡したケースも見つかったという。まったく、何とも酷い話である。
(文=橋本玉泉)