金子光晴(1895~1975)といえば、昭和初期から戦後を代表する詩人として広く知られ、その作品は学校の教科書などにも多く採用されている。また、創作だけでなくフランスの詩人・アルチュール・ランボーの詩の翻訳など、幾多の業績を残している。
その一方で、幼少時から家出や奇行を繰り返すなど破天荒な面はどれほど知られているのだろうか。その行状は、『人非人伝』(1971年・大光社刊。後にペップ出版から再刊・現在絶版)に独特の文章でまとめられている。
裕福な家に生まれた金子だったが、早熟で、幼い頃に東京へ。そして、まずは万引きで盗むことを覚える。また、10歳で家出し、かつて父親に連れてきてもらった吉原に足を向ける。そして手引き茶屋の顔見知りの女性から小遣いをもらって金魚すくいをやって帰ったという。
12歳で入学したのは、名門といわれる暁星中学校。名家や政財界の子息ぞろいだが、金子いわく「バカばっかり」で、賭場でバクチにのめりこんでいたり、銀座に出没する不良少女たちと不純異性交遊を重ねたりするような不良少年などがごろごろしていたという。そうしたなかで、金子も奔放に振舞った。
だが、金子は決して自分を大きく、強く見せようなどとはしていない。むしろ、自分のありのままを何度も描写する。たとえば17歳で女郎屋を体験した時の状況などは、何とも情けない。行為の後で性病が恐くなり、薬局で消毒剤である石炭酸を買い求めると、公衆便所に飛び込んで自分のペニスを消毒しようとした。
ところが、あわてているのでビンの蓋がなかなか開かない。焦った金子は、ビンの口を叩き割ると、石炭酸をそのまま希釈もせずにむき出しになった自分のモノにぶっ掛けた。石炭酸は強い薬品であるから、当然ながら粘膜を直撃。金子はその激痛に「とび上がったねえ」「おちんこがとけてなくなっちゃうかと思った」などと述懐している。ユーモラスな文章なのだが、何とも無茶をやったものであるし、同時に若年の男性なら同じような思いをしたのではないかと同感してしまう。ちなみに、当時の安価な私娼は「10円で5回」くらいは遊べたという。
このほか、早稲田大学入学から中退、文学生活やヨーロッパ放浪など、自らの意志と好奇心のままに暴れまわった半生がつづられている。
文化人の中には、しばしば自らの逸脱した行動をステイタスに結びつけようとする者がいたりするが、金子にそうした様子はまったく見られない。詩人としての地位と社会的評価が確立した時点でも、自らを「おもしろいエロじいさん」と呼ぶなど、真の反体制、アウトローを貫こうとする姿勢が見える。これほどの表現者は、果たして現代に何人いるのだろうか。
ちなみに、『人非人伝』は古書店やインターネットでまだいくらか購入できるようだ。
(文=橋本玉泉)