アダルト関係で多くの人々の関心をひく要素のひとつに、性感染症がある。少し前までは”性病”と呼ばれたものを商売のネタにして、巨額の財産を手にした男がいる。医薬品販売会社「有田ドラッグ商会」の経営者、有田音松(1867~1944)である。その生涯や「業績」については、竹村民郎『廃娼運動』(中公新書)や稲垣喜代志「ニセ国士・有田音松伝」(學藝書林『ドキュメント日本人』第9に収録)などに詳しい。
江戸時代最後の年に広島で生まれた有田は、14歳の時に大阪の商家で奉公するようになる。ところが、その年ですでに女遊びを覚え、盛り場をうろつくなど素行の悪さが目に付くようになっていったという。そして、勤め先の商品を勝手に持ち出すなどの不正を繰り返していたことから、ついに商家をクビになる。
金も仕事もなくなった18歳の有田は東京にたどり着くと、政治風刺の歌曲として知られる「オッペケペ節」の興行に随行して全国を放浪した後、神戸でヤクザになって遊郭で客引きの仕事していたが、恐喝事件に関係して神戸を去り、朝鮮半島に渡って自ら調合した性病薬を売る仕事を始める。これが当たって利益を得るようになるが、薬種問屋相手に詐欺を働いたことから売れ行きは低迷。逃げるように日本に帰った。
神戸市に舞い戻った有田は、ここでも性病薬の販売を始める。その際、有田が力を入れたのが新聞広告を使った販売戦略である。
有田の設立した「有田ドラッグ商会」の広告には、「ばい毒」「りん病」などと大きく書き込んだ脇に、「欧米医科大学 帝国大学にて調合」などと、あたかも権威ある医学研究機関によって開発されたかのように記載し、しかも「にせ物あり」「にせ薬に注意」などと記して、自社製品が本物であるようなニュアンスを強調した。当時、性感染症にかかるものは少なくなかったことから、「にせ薬」の類が横行していた。
さらに、有田ドラッグ商会の広告は単なる商品宣伝だけでなく、「これで私は性病が完治しました」という、今で言うユーザーの体験談まで掲載していた。
ところが、これらは実際にはすべてがデタラメであった。のちに有田が雇っていた渡辺新次という人物が経済雑誌『実業之世界』大正14年4月号で、有田とその商売の全容を暴露した。それによれば、有田が販売していた製品も、他の「にせ薬」と大差がなく、利用者の「体験談」も、100円を払って言わせたことなど、有田のさまざまな悪行が述べられていた。ちなみに、当時は公務員の初任給が70円程度。その時代に100円も払って「ヤラセ」をさせたわけだから、有田が広告についてどれだけ重要視していたかがわかる。
これらの広告戦略は、性感染症への恐怖を実にうまく利用したといえよう。性感染症は、できれば誰にも知られたくないというのが人情である。また、実際に性感染症にかかっていなくとも、「もしかしたら感染したかも」と思う者は少なくない。検査すら受けるのをためらう人も多い。そうした人々が、風邪薬のように店頭で買ってきて自宅で治せたら好都合と考えても不思議ではないし、感染していなくとも、「念のため」と購入する者もいたと考えられる。
しかし、当時は抗生物質もなく、特効薬といえば梅毒の治療薬「サルバルサン606」があった程度である。市販できる医薬品で、性感染症を根治させる効果のあるものなど、まったくなかったのである。
にもかかわらず、有田は堂々と「にせ薬」を売りさばき、当時の財界人と肩を並べるほどの大富豪になったと伝えられる。その資産総額は明確ではないが、おそらく50万円から100万円ほどではなかったかといわれている。現在の価値で10億円から20億円というところだろうか。
そうした有り余る金で、有田は出版事業などにも手を出し、また社会活動なども展開するが、すべては売名行為のためだったといわれる。
有田は『実業之世界』の記事に激怒。猛然と反論するが、結局は敗北。以後、業界から姿を消したという。
(文=橋本玉泉)
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