その昔、歌謡曲とは大人のものだった。タバコの煙と焦げ茶色した洋酒のイメージがまとわりつく、いかがわしくて猥雑なものだったのだけど、でもその中に男と女の真理が数々歌われていた。
だけど90年代初頭にもなると、歌謡曲はJ-POPという何もかもが軽~い言葉に置き換えられて、オンナコドモのアイテムになってしまった。歌い出しからいきなりサビ、という曲が多いので、カラオケではマイクを持った瞬間にイイトコ取り、初っ端から盛り上がること間違いナシなのでしょうが、一番重要なメッセージにたどり着くまでの紆余曲折したメロディと深みがない。さらに意味不明で文法的にも怪しかったりするやたらキャッチーなだけの英詞を織り交ぜることにより、歌詞内容も希薄になっているし。
もちろん全部が全部そんな具合じゃないのでしょうが、そしてそれはそれとしてニーズがあるから頭ごなしに否定するのも変なのでしょうが、オヤジ的にはやはり何か居心地の悪さを感じていたその頃、そんなフラストレーションを霧散させてくれる時代が到来したのです。
奥村チヨ・再評価期であった。
もちろんこれは、みうらじゅん氏の地道で熱心な布教活動により結実した「ブームメント」なのだが、ボクのようなオヤジ層だけに迎え入れられたのではなく、世間一般にも大いに浸透し、一過性のブームで終わることなくその後も奥村チヨは邁進(まいしん)し続けている。このことは、みうら氏責任編集盤の『コケティッシュ爆弾(ボム)』が世に出たのに端を発して、数々の復刻盤やオムニバス、チヨ楽曲が収録されているコンピ盤がリリースされていることからも明らかである。
J-POP的な”エロかわ”にはありえない、いかがわしさと猥雑さ、男心の奥に粘り付くエロの魅力が奥村チヨの中にはある。
J-POPが気ままで気軽な恋愛(≒セフレ)を謳歌するときに、チヨは特定の男性に一生の隷属を誓うのである。それも、時にうわずった声を交えた、鼻に抜ける甘えるような発声で。
彼女こそが、「小悪魔」と呼ばれる元祖にして本家であり、そしてそれは過剰なネイルと盛りヘアによって造られたものでは決してない。
永遠のディーヴァ、奥村チヨ。これからも男たちを悩ませ続けるだろう。
(ライター/シノヤマ・ピピン)
チヨの奴隷になりたい