女子高生とギャルとアイドルの風俗時代
イメクラなどフェチ系風俗の萌芽、AV風俗の誕生、そして第二次女子校生ブームからのブルセラの発生、女子校生売春…。90年代前半は、過去のブームの再燃が目立つ年代だった。
そして92年、横浜に新たな風俗街が出来始めると、歌舞伎町や池袋など、都内の繁華街にも少しづつ風俗店が看板を連ねるようになってきた。それが、80年代に次ぐ第二次ヘルスブームの始まりだった。
が、そもそも、店舗型のイメクラができたのも不思議といえば不思議ではないか。なぜなら、新風営法の規定によって、都内の繁華街にはすでに新たな風俗店が出店できる地域はなくなっていたからだ。
それなのに、歌舞伎町一番街や桜通りを始め、池袋北口や東口のマンション、渋谷道玄坂、高田馬場周辺には続々と店舗型風俗店が現れていた。なぜ…。
もちろん、最初の頃は風俗店経営者たちも、「本当に大丈夫なのか?」とは思っていたにちがいない。しかし、摘発されるどころか、増える一方の風俗店に一攫千金を夢見た男たちが、チャンスを逃すまいと、「あとはままよ」と参入し、新たなブームが始まったのだった。
1995年、阪神大震災により、関東大震災以来の悪夢が日本列島を覆った翌年、復興途中の日本に新しいジャンルの風俗が現れた。それが、歌舞伎町に現れた『NEW COッスル』。「抜きキャバ」と呼ばれる風俗だった。
「抜きキャバ」は、キャバクラ風の豪華な飲み屋で女の子と一緒に飲み、気に入った子を指名して別室でヘルスのサービスが受けられるというもの。
連れ出しクラブのようで、連れ出しではなく、顔見せちょんの間のようで、ちょんの間でもない。人気となっていた性感ヘルスより豪華な雰囲気と、実際の本人を見て選べるところがポイントだった。
しかし、災害によって暗い雰囲気が立ち込める日本に「抜きキャバ」は、新しい風を吹き込むか、と思われる間もなく、アッという間に消え去ってしまった。
その理由は、キャバクラとヘルスの分、高く付いた料金のせいだと言われることもあるが、抜きキャバに対して当局が、予想以上に厳しい反応をしたことではなかったろうか。筆者の記憶にも、軒を連ねる性感ヘルスよりも、摘発されるのは抜きキャバばかりという印象がある。
これは想像だが、普通のキャバクラだと思って入った客に、女のコやスタッフが必要以上に別室でのサービスを迫ったり、または、当局にとって飲食店と風俗店との見分けがつかないことに対する対処だったのではないか。
薄く広く全国の歓楽街に広まりつつあった抜きキャバは、今でも札幌すすきので営業している優良風俗店『プッシーキャット』を除いて全て閉店してしまった。
同じ頃、ヘルスと同じく第二次ブームとなっていた女子校生たちの間でも流行り始めた新しいアルバイトがあった。それが現代にまで続いている「援助交際」だ。
「援助交際」という言葉は、昭和の時代に雑誌の交際欄を通じて生まれた言葉だったが、1996年(平成8年)、ケータイの出会い系サイトが登場すると同時に蘇ってきた。
当初、援交は一部のイケイケな女のコの間だけのお小遣い稼ぎで、援交ができる女のコは「カッコいい」と羨む声もあった。しかし、ブームを境に裾野であるフツーの女のコたちにまで援交が広がった結果、「カッコいい」というイメージは消滅していった。
同時に、世間では「援交=売春」だと取りざたされたが、彼女たちにしてみれば、セックスだけでなく、デートや食事してお小遣いをもらうことも援交に入るのだから、イコール売春ではないという。つまり、「売春は援交の中のひとつ」という考え方だった。
そして、女子校生ブームと共に大きなブームとなっていたのが「ギャル」だった。女性ファッション誌から生まれたギャルファッションは、ギャル本人たちによって新たな文化として発展していった。
その過程で生まれたのが「コギャル」や「マゴギャル」という言葉とファッションだ。ギャルに対して高校生がコギャル、中学生がマゴギャルというあたりだが、「ギャル」や「コギャル」という言葉は今でも使われているだけに馴染みは深い。
安室奈美恵のファッションをモチーフにした「アムラー」や、篠原ともえの「シノラー」など、そして厚底履はギャル必須のアイテムだった。
風俗店でももちろんギャル、コギャルタイプの女のコの人気は高かったが、店内で私服姿を見れることはほぼない。風俗客と彼女たちの普段の姿をつなぐもの、それは風俗誌だった。
この頃すでに、複数の風俗誌が発行されていて、『ナイタイニュース』と『マンゾク』を筆頭に、『ヤンナイ』『おとこの遊び専科』などの風俗誌が、毎月コンビニの書棚に並んだ。
グラビアページには、すでに篠山紀信撮影の写真集『water fruit 不測の事態』によって”解禁”となっていた、風俗嬢たちのトップレスやヘアーまでが晒されていた。
女の子たちは恥ずかしがることもなく、むしろ写真に撮られ、雑誌に載ることを喜ぶように堂々と全裸を披露し、ギャルファッションに身を包んだプライベート写真を晒していた。
タレントで元宮崎県知事だった東国原英夫(そのまんま東)が、イメクラでの淫行により、事情聴取を受けたのも風俗ブームのこの頃だ。ちなみに、そのイメクラの名前は『ルーズソックス』だった。
この頃の風俗がらみの有名な事件がもうひとつある。それが「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」だ。大蔵省の官僚が、歌舞伎町のノーパンしゃぶしゃぶ店『楼蘭』で、銀行から接待を受けていたという
収賄事件だった。
官僚7人は有罪、同店は瞬く間に有名にはなったものの、公然わいせつ罪で摘発、間もなく閉店となった。前々号で大阪のノーパン牛丼『ちち乃屋』に触れたが、『楼蘭』もひょっとしたら『ちち乃屋』にインスパイアされて開店したのかもしれない(笑)。
ネットサイトのAERA.dotによると、『楼蘭』の料金は、2時間のコースで税込み1万9980円。料理の内容は、フォアグラ、タイの刺し身、松阪牛だったとある。もちろん官僚たちは、こんな一般的なコースではなく、最上級の料理と女のコを楽しんでいたに違いないのだ。
店が悪いのか事件を起こした銀行と官僚が悪いのか、いずれにしても事件は、店にとって、そして風俗好きにとってとんだ迷惑行為となった。
そしてまた同じ頃、全国の繁華街、歓楽街に韓国、中国を始めとするアジアンエステが開店し始めていた。
韓国エステの第一号店は、93年に北千住にできた『千住エステ』だと言われる。しかし、ここは抜きがなく、マッサージオンリーだったため、風俗店の歴史には残っていない。いわゆる、揉みあり抜きありの韓国式風俗エステの一号店は、96年に新宿三丁目にできた某店だと言われている。
韓国エステは、マッサージと手コキという”癒しと興奮”の対極のサービスをウリに、翌97年、一気に全国に広まった。
筆者の記憶が確かなら、当初は韓国エステが流行し、徐々に中国エステが入ってくると、一気に「本番」が増えていった。後に2000年代に入ると、ロシアなど白人エステまでが登場し、大陸エステでは、本番が既定路線となるのだった。
そして、インターネットが電話回線のダイヤルアップからISDNに代り、世間に普及し始めたこの頃、風俗店もホームページを持つようになった。もちろん、現在とは比べものにならないほどお粗末なものだったが、インターネットのおかげで、風俗業界も大きな変革期を迎えることとなった。
読者諸氏は「Y2K」という言葉を覚えているだろうか。”Year2000”の略語で、「2000年問題」を指す。2000年になるとコンピューターの日付が対応できないという問題で、世間が騒ぎ始めていた世紀末の1999年、またしても風営法に、風俗業界を揺らがせる大きな改正が行われた。デリヘルの合法化だった。
過去の風営法改正は、風俗店の営業を厳しく規制することが大半だったが、今回の改正は”合法化”するという逆の改正に関係者の戸惑いは隠せなかった。
「風営法の改正は、風俗店の看板を観光客や青少年の目から隠すためにデリヘルを合法化するというのが表向きの理由。だけど主眼は、当局がデリヘルの実数をつかむためのものですよ」
風俗誌編集長Y氏も当時の改正をそう読んでいた。それ以前も無店舗派遣型風俗はあったが、裏風俗のホテトルなどと混在して曖昧になっていた。それを当局が管理、是正しやすくするという意味での”合法化”というのが大筋の読みだったのだ。
登録制にはしたものの、登録に出向く業者はボチボチだったという。おそらく業者側も、本当に登録していいのか悪いのか、戦々恐々だったに違いない。
当時は、若干料金が高めだったデリヘルより店舗型風俗が大人気で、歌舞伎町の『アイラ』、池袋の『エンジェル』、高田馬場の『アイカ』など、「フードル」などと呼ばれる風俗嬢アイドルが現れていた。
特に、池袋のエンジェルは、かわいらしい笑顔が大人気で、予約は「三年待ち」とも言われるほど。他風俗店の人気嬢とユニットを組み、CDデビューや写真集も発売されるほどだった。
歌舞伎町一番街の雑居ビルには風俗店の看板がきらめき、街も賑わった。
「風俗店の出店は禁止されているが、ぼったくりもせず、本番もさせていないのでお目こぼしを受けている」
ほぼ全ての関係者がそう思っていた。当時すでに「風俗ライター」を名乗っていた筆者もそのうちの一人だった。
しかし、この時の風営法の改正は、数年後に起きる風俗大改革の予兆に過ぎなかったのだ…。
〈文/松本雷太〉
<参考文献>
・「日本風俗業大全」データハウス 現代風俗研究会著
・「風俗のミカタ1968-2018」人間社文庫 伊藤裕作
・AERA.dot