明治時代以前の日本において、処女を神聖視したり、特別視したりする考え方はまったくなかったことは何度も申し上げた。若い女性が付き合っている彼氏とセックスを楽しんでいてもまったく問題はなかったし、まして「傷物」などと女性の価値が下がることもなかった。独身の男女がどのような性生活を送ろうが、いっこうに構わなかったことが数々の資料で知ることができる。
では、いかなるセックスも自由だったかというと、決してそうではない。セックスの種類によっては極刑もありうる重罪になったケースもある。
まず、非常に罪が重かったのが「密通」である。密通とは広義には婚姻を伴わないセックスすべてのことであるが、付き合っている若い男女がセックスして処罰されたという事例は、あったのかもしれないが資料にはみかけない。むしろ、密通の代表的なものは、結婚している者の浮気、いわゆる不倫関係である。
江戸時代の法律は、八代将軍・徳川吉宗の時に大きく整備された。その際に制定された法令集『御定書百箇条』には、密通した者は「死罪」と定められている。発覚すれば死刑とは、不倫も命がけである。
江戸時代の倫理観は儒教とくに朱子学にウエイトが置かれており、主従関係が重視されていた。密通つまり不倫行為は夫婦という主従関係を否定するものであり、いわば裏切り行為であったため、これを厳しく処罰しようとしたのである。江戸時代の価値観は決してセックスを否定的に考えたものではなかったのだ。
ただし、密通がすべて死罪になったわけではない。実際には町人の間では和解で解決することも少なくなかったというし、武家では奥方の密通を世間体を気にして隠し通したというケースも多かったと資料は語っている。
だが、さらに厳格なケースがあった。『御定書百箇条』には、僧侶がセックスすることをかたく禁じ、「女犯」つまりこれを破って女性とセックスした場合、「遠島または死罪」とされている。
僧侶の場合、武家や町人の密通よりも格段に厳しい。とにかく、女性とのセックスは全面禁止なのである。合意のもとであろうが何だろうがダメ。レイプなどもってのほかである。実際、女性を強姦してただちに死罪に処せられた坊主のケースはいくつも資料にみられる。
そして、軽い場合でも遠島である。遠島というと「ただの島流し」と思っている人がいるが、実際には終身刑が基本であり、死罪につぐ重刑である。
何故僧侶にこれほど厳しい刑を科したかについては、単に仏教で僧侶に対して修行の妨げになるとしてセックスを禁じる「不淫戒」があったというだけではなかろう。当時、僧侶は宗教関係だけでなく、檀家制度によって住民の戸籍管理や婚姻、転入出、さらには往来手形、現在ではいうパスポートの発行まで多くの行政に関する権限を与えられていた。そうした権利や権限を有しているからこそ、その身について厳しく処する必要があったのだろう。
しかし、いかに厳罰を科したからといって、人間の性欲が収束するわけではない。僧侶とて、生身の人間である。ただ、法令で禁じられているのは女性とのセックスである。したがって、僧侶の間でゲイが大流行するのはいわば当然であったる。ちなみに、文化文政時代以後の自由な空気の中で、江戸時代の男色文化はさらに豊なものとなっていくのである。
(文=橋本玉泉)