銀座、ヴァニラ画廊というギャラリーで、「人造乙女博覧会」というラブドールの展示会が開催されている。本当はいつものように「ヒャッハー! 汚物は消毒だぁ!!」とアゲアゲのテンションで原稿を書こうかと思ったのだが、やめた。銀座という土地柄や画廊という場所のためではない。ただ単にぼくが「人造乙女」たちに感銘を受け、なんとかそれを読者の方々に伝えたいと思ったからだ。
「これらのラブドールは最新作で指にまで間接が云々」だとか、「カップルや母子も来場して云々」といった話は、今回は脇にうっちゃりたい。ラブドールの歴史にも言及する気はまったくない。そこら辺の客観的な事実はオリエント工業さんのWebサイトを見れば分かる話だ。今回の取材は極々主観的な記者の内面を開けっぴろげにつづっていこうと思う。客観的事実は、この原稿に言及しない。なぜなら人形とは客観的な視点から語れるものではないからだ。そこに実際に足を運んだ人間がどう思ったか、そしてあなたがどう感じるかが人形を語る上で最重要事項となるからだ。もしこの記事を読んで、ひとりでも彼女たちに会うためにギャラリーに足を運ぶひとが出てくれたら、幸いである。
会場となったヴァニラ画廊は、銀座松坂屋の裏手にある、昭和30年代に建てられたビルの一室にある。昭和の趣を色濃く残し、江戸川乱歩や横溝正史が好きな人であれば心ときめくような佇まいだ(足腰に自信のある人は、4階の画廊までぜひ階段を使ってみてほしい)。
画廊入り口の鉄の扉を開くと、目の前にはシリコンでできた少女が二人佇んでいる。まるでおとぎ話に出てくるような格好をした少女たちだ。ピンクのワンピースを着た彼女は花束を捧げるように手にしている。その隣の白いワンピースの少女はウェーブのかかった髪を肩にたらし、軽く両手を拡げて今にも挨拶を交わそうとせんばかり。
これは戸惑う。
戸惑うというのは、観客であるぼくを出迎えている二人を含め、合計8人の人造乙女たち(+5体のトルソー)があまりにリアルで、あまりに浮き世離れしているからだ。夜の夢こそ真とは江戸川乱歩御大の言葉であるが、それが眼前にあるからだ。そして、あまりにも透明な彼女たちが(それはシリコンという素材のせいもあるのだろうが)、もともと性的に奉仕するために生産されているという事実からだ。
二人の隣にはそれぞれ、ソフトビニール製のラブドールを作るための金型と、5人のトルソーが陳列されている。かなり古びた金型は、ここにいる人造乙女たちのためのものではないにせよ、間違いなく母親、あるいは母親の子宮ともいえる存在だ。錆びた鋼鉄の中に囚われている金型は、表面こそそれなりに滑らかであれ、色味のせいもあって、どこか焼けただれたような印象を与える。頭、手足とそれぞれ分断され、鋼鉄の檻の中に閉じこめられて、あまつさえ、目のあるべき所には朽ちかけたようなボルトが埋まっている。痛々しい。
おそらく健全な精神の持ち主なら(たとえば乱歩に興味を持たないような人なら)、気味が悪いと断ずるだろう。しかし、ぼくには、オリエント工業や画廊の方々には申し訳ないが、これが一番美しいと思えた。この型が美を生み出す泉に見えたからだと思う。テーブルの上に置かれた5体のトルソーはそれぞれ違った顔立ちをしている。年の頃はローティーンから二十歳くらいだろうか。そのどれもが真正面を見据えている。いや、視線は前を向いているのだけれども、焦点がどこに結ばれているのかはさだかではない。人形だから当たり前といえば当たり前かもしれないが。夢見る瞳と表現した方がいいのだろうか。ぼくを見ているようで見ていない。ぼくを見ていないようで見ている。そんな矛盾が瞳には宿っている。
考えてみればもともと人形というのはそのような存在ではなかったのか。無生物を生物のようにつくったものが人形だ。人間ではないのに人間のように扱われるためにつくられたものだ。この人形を購入した人たちは、人形を妻といい、妹といい、娘という。名前をつける。服を着せてやる。化粧もしてやる。彼女たちは食事も排泄もしない。当たり前だ。人形だもの。でも彼女らの主人はあたかも生きているかのように人形を扱う。現実には生きていないのだが、彼らの中では生きている。空想とも妄想ともなんとでも称していいが、とにかくその中では彼女たちは生き生きとしている。
夢というものは大概、支離滅裂で矛盾しているものだ。彼女たち人形も夢みたいなものなのだろうか。寝ながら起きて見る夢と生物と無生物の中間地点に存在している彼女たちはそんな夢的な存在なのだとぼくは思う。
5体のトルソーの横には夢としての存在を強調するかのように天使的な二人がいる。ひとりは天井から吊されたブランコに座り、もうひとりはベッドにはらばいになり半身を持ち上げている。顔こそ日本人的ではあるが、西洋の童話にいかにも出てきそうだ。デイジー・チェーンでも持たせれば完璧だ。ふたりとも小首をかしげ、ひどくコケティッシュな雰囲気をかもしだしている。ぼくがもし天国に行くとしたら(はなはだ疑わしいけれど)、こんな天使に迎えに来て欲しい。
二人の天使たちの横手にある壁際には3体の半裸の人形が椅子に座っている。ショーツしか身につけていないけれども、不思議とエロスは感じられない。むしろ、エジプトの神々の彫像にも似た神々しささえ感じられる。性的玩具として製造されたにもかかわらず、そしておそらく胸の大きさのサンプル的な意味合いを持つにもかかわらず、彼女たちからは神性がにじみ出ているかのようだ。
そして彼女たちの左手にはまたひとりの人形が椅子に座っている。彼女はスタッフに頼めば触れることができる。
まず触ってみたのは指先だ。なぜ指先かというとそこが一番無難なような気がしたからだ。けれどこの原稿を書きながらよくよく考えてみれば、ぼくが女性と付き合う中で一番触れるところが指だったからかもしれない。もちろんセックスの時には全身に触れるのだが、普段の生活の中でもしくはデートしている中でもっとも頻繁に触れるのが手指だからだ。
人形は当然ながら体温をもたない。ひんやりと冷たい。触れた指に体温は届かない。寒さではない震えがぼくの中から湧き起こる。熱のない肉体はひとではないことを表している。腕を触ってみた。太ももや下腹を触ってみた。シリコンの皮膚が手に吸い付くかのようだ。ただ女性の肉体のもつやわらかさというものはそこにはなかった。どちらかといえば筋肉の固さに近いであろうか。けれどもそこには筋張ったイメージはまったくない。体のラインはとろけるようにやわらかく、エロティックだ。
ぼくは取材で来ているのだから、もっと体中くまなくベタベタ触ることもできただろうけれども、無理だった。なにかセンセーショナルな感覚が指先から走ったのだ。ぼくのつたない筆ではこれ以上お伝えすることはできない。こればかりは実際にギャラリーに赴いて体験していただくほかないと思う。取材としては完全に失格だ。伝えられないと伝えてしまっているのだから。それでもぼくは画廊に行って、リアルでアンリアルな彼女たちをその眼で見ていただいて触れてほしいと思う。
古代ギリシャでは巫女たちはそのまま娼婦だったそうだが、このラブドールたちは娼婦が巫女のようなものだ。改めて考えてみれば、無生物と生物の中間的存在である人形がそのような聖なる娼婦だとしてもなんの不思議もないのではないだろうか。
(撮影・文=珊瑚ky)
◆人造乙女博覧会
開催期間:開催中 ~ 2010年05月15日まで
会場:ヴァニラ画廊
〒104-0061 東京都中央区銀座6-10-10 第2蒲田ビル4階
http://www.vanilla-gallery.com
『南極1号伝説 ダッチワイフからラブドールまで-特殊用途愛玩人形の戦後史』バジリコ
知れば知るほど奥深い
見れば見るほど恋い焦がれ、やがて彼女に会いたくなる